
カナダ南東部のアケイデイア地方はフランス最初の植民地として知られていますが、そこに住みついたフランス人、アケイデイアンが英仏植民地戦争(1747年)によってイギリスから迫害を受けたとき、追放されたアケイデイアンの多くの人々は当時フランス領だったアメリカ南部ルイジアナ州南西部の干潟や入り江の多いバイユー・スワンプや北部の平原地帯に住みつくことで伝統的なアケイデイア文化を保持して独特な文化圏を形成してきたといわれていますが、現在彼らに対して良く使われる「ケイジャン」という呼称は彼らアケイデイアンを意味するフランス語の“ケイディヤン”が英語式になまってケイジャンというようになったといわれます。したがって彼らが持ち込んできた音楽を「ケイジャン・ミュージック」と呼ぶわけですが、『カントリー・ゴールド2005』で日本初登場するジョ-エル・ソニエはそのアケイディアンの誇りケイジャン音楽の、カントリー、R&B、ロックとのコラボレーションから作り出される現代コマーシャル・ケイジャンの、またケイジャン・アコーデイオンの第一人者として知らぬ者ないスーパー・スターです。
ジョ-エル・ソニエは1946年ルイジアナ州ライン出身。5歳でアコーデイオンを始め11歳でプロ・デビューして13歳でレコード・デビューを飾り天才少年として大変な人気者であったと伝えられますが、20代初めには“ケイジャン・バレンティノ”と呼ばれていたということでも彼の人気の程が知れようというものです。
1972年、ルイジアナからロサンゼルスに活動の場を移し、アルバート・リー、デビッド・リンドレ−、ガース・ハドソンが在籍していたパロミノ・クラブのハウス・バンド「フレンズ」に参加。74年、ナッシュビルに進出してマーキュリー・レコードと契約“I’ve
Been Around Enough To Know”(’75)“Always Late ”“He’s Still All Over
You”(’76)がカントリー・ヒット。76年にはアスリ−プ・アット・ザ・ホイールのアルバム『Wheelin’
And Dealin’』に同じケイジャン仲間リンク・デイビスと参加。79年、ルイジアナに戻りラウンダーで録音したナッシュビルのカントリー仲間との共演アルバム『
CAJUN LIFE』がグラミー賞にノミネートされています。
1987年RCAと契約、再びナッシュビルに移りケイジャン・カントリー・スターとして認知されるアルバム『COME
ON JOE』がヒット。その中から“Come On Joe”(’87)“No More One More Time”“Tear-Stained
Letter”“Rain’ In My Heart”(’88)4曲がシングル・ヒット。89年にはRCA第2作『HAVE
A LITTLE FAITH』から“Blue, Blue”“If You Heart Should Ever Roll This
Way Again”(’89)“The Scene Of The Crime”(’90)がヒットすることによってコンテンポラリー・ケイジャンのブーム的現象が引き起こされ、ブルーグラス的音楽性をも兼ね備えたボーソレイユと共に日本でもカントリーのみならず、ロック・ファンの間でも大きな話題になったものです。
RCA以後はリバテイ−に移籍、『TEARS OF JOY』(’91)『HELLO HAPPINESS AGAIN』(’92)を発表。以後現在に至るジョ-エルはラウンダーなどにグラミー賞にノミネートされるアルバムを含む多数の録音を残し、活動の拠点もナッシュビルから再度ルイジアナに移しているようですが、カントリー・シーンにおける彼の存在は依然として旧世代のケイジャン・カントリーのグランド・オール・オープリ−・スター、ジミーC・ニューマンに対するコンテンポラリー・ケイジャン・カントリー・ミュージックのカリスマとして押しも押されもしないスーパー・スターとして現在あります。また、ジョ-エルの作品はジョニ−・キャッシュ、フイドリン・フレンチ・バーク、ジョン・アンダーソン、メル・マクダニエル、ジョージ・ストレイトといったカントリー・スターのアルバムでいつでも聞くことが出来ます。
ジョ-エル・ソニエのケイジャンは伝統的なケイジャンはむろん、ポップ・カントリーやR&Bやロックンロールのグルーブ感でうたい、演じあげる、伝統と革新、旧世代と新世代の架け橋となるまさにいまに生きるケイジャンといっていいでしょう。スタイリステイックでアクテイブなジョ-エルのパフォーマンスはトリック・ポニーと共に絶対目がはなせません。